美しく染め上げられたカラフルな色糸で織られた絢爛たる織物が西陣織物であり、一般に先染織物といわれています。
我々の業界は、それら織物用の絹糸を精練し、染色する「糸染」がその発祥であり、現在でも、その技術は綿々と伝承、改良され行われています。
しかし、明治以降、ヨーロッパからの相次ぐ合成染料の流入、数多くの化学繊維、合成繊維の出現、機械や電気技術の発展により、我々業界の仕事内容、染色方法は大きく変貌しました。
今日、我々の業界は西陣の帯に代表される織物の糸を、手工的に染め上げる一方で、洋装や繊維資材分野の染色を科学的な手法を用いて染めるという、伝統と現代技術が融合した染色業界です。
ここに、「糸染の歴史」「我々が染めている繊維について」「我々が使用している染料について」「我々が使っている機械について」という面から、業界のこと繊維染色について 紹介します。
古代エジプトのミイラに巻く麻糸は、藍や茜で染められていた。メソポタミア人はウコンやサフランで布を黄色に染めていた。クレオパトラはある種の貝の分泌腺から得た紫の色素で染めた衣服を権力の象徴としていた。
色彩は幽玄にして、人間生活においては喜怒哀楽のあらゆる感情を誘発し、情操を豊かにするものである。また、いくら優秀な技術の織物を織っても、色彩がなければまったく無味乾燥なものである。人間生活の有史以来、染色は我々の生活には不可欠なものであった。
染色の歴史には古代人から伝わる綿々とした技術と、近代の科学技術の織り成すドラマがある。
古事記によると「天照大神の時に青白の弊あり、其れ果たして如何なる染料を用いて染めしや」、また万葉集に「月草に衣ぞ染むる君がためいろとりどりの衣摺らんと思いて」とある。
古代は麻糸の織物が主体で、染色については草木の汁液や花などで摺染(スリゾメ)していた。しかし、応神・仁徳帝の時代に秦氏が帰化することにより、織の技術とともに染の技術が伝来、進歩し、飛鳥・天平時代に入って草木染の染色技術は益々発達した。
多分に、この時代に草木の色素を摺染するだけでなく、中国・朝鮮から明礬(ミョウバン)や硫酸鉄などを使用する、いわゆる媒染(バイセン)の技術が伝来し、衣服はよりカラフルになったと考えられる。
美しく染め上げられた衣服をまとうのは、つねに高貴の象徴であった。当然、帝に仕える人々に織師、染師が生まれた。
桓武天皇の遷都と共に織部司が奈良の都から平安京に移され、染め人も京の都に移住したのである。この時代に西陣の糸染業のルーツを探ることができる。
紅には紅師あり、紫には紫師あり、紺、黒染師が生まれ、何れも禁裡の御用を専らとし、染師の邸宅は烏丸一条辺を中心とした御所の近くにあり、美しい色糸て織り上げられた絢爛な絹織物は、まだまだ一般大衆のものでなかったころ、染師は苗字帯刀を許され、相当格式があったと伝えられている。
徳川時代には、植物染料を主体とする染色法はほぼ確立し、一般大衆の需要に応じる染屋としての独立した糸染業が生まれた。
文化10年の佐藤信淵の『経済要録』には藍葉、紅葉、紫根、茜草、ウコン…など
植物染料が商取引として挙げられている。また我々の組合員の中にも、この時代の創業の工場を散見することができる。
八代将軍吉宗は吹上御苑に染殿を設け、大いに染色の研究をせしめ、染業の発展に貢献したとの記録もあり、京都の糸染業は産業として、この時代に大きく発展した。
明治初年頃から人造染料が日本各地にヨーロッパから、ぼつぼつ輸入され始めた。当時の繊維は古代からの麻、絹、それに徳川時代から使用がはじまった綿であり、染色はすべて天然染料であった。しかし、1865年にイギリスのパーキンが合成染料を製造、当時の有機化学の発展とあいまって、次々に多くの染料が人工的に造られるようになった。
染色方法は大きな転換期を迎えたのである。我々組合員の当時の先達の中にも、三田忠兵衛や高松長四郎氏は、明治13年にドイツに留学し、人造染料による新しい染色技術を学び、帰朝後それぞれに京都染色界に大きく貢献した。この時代、織機もヨーロッパから輸入され、繊維産業は近代産業として変貌しはじめた。
現代の染色は、戦前と戦後とでは著しく異なり、大別して述べなければならない。まず大正時代から戦前の間には、原材料としての染料の開発である。明治時代から既に直接、酸性、塩基性のほか、インジゴ、インダンスレン、硫化染料が逐次に開発、使用されているが、大正時代に入ってから、ナフトール、含金染料、アセテート染料、インジゴゾール染料が相次いで開発され、大正末期にはドイツ染料が各種大量に輸入され、新しい化学繊維であるレーヨンの出現とともに、業界の染色技術が急速に向上したときである。
戦後はこれに一層の拍車がかかる。
ナイロン、ポリエステル、アクリルなどの三大合成繊維の登場である。当然、これらの合成繊維と共にして分散染料やカチロン染料、さらに反応染料という綿用の高堅牢染料が開発され染色は先端化学技術となった。また高度成長の波に乗って、大量染色がはじまった。機械や電気技術の応用により、従来はすべて手作業でなされていた染色が機械化されだした。
噴射式染色機、オーバーマイヤー染色機、回転バック、高圧染色機、更には省力化、大量染色のため、従来は糸染といえばすべて綛糸染であったものがボビンに巻いたまま染色するチーズ染色が導入された。
古代から何千年と続く伝統技術を経糸とし、時代時代における先端技術を緯糸として織り成す当業界の染色という長い織物の現在はどんな絵柄でしようか?
(1) 西陣の帯に代表される和装品の糸を、経験と勘により手工的にすばやく、美しく染め
上げる工場。
(2) 絹糸の染色の良し悪しは精練による。精練技術に卓越し、精練を専門にする工場。
(3) 精練染色を一貫してする工場。
(4) ネクタイ、マフラー、ショールや金襴織物の糸の染色を得意とする工場。
(5) クロス、カーテンなどの室内装飾織物や、自動車、車両のシートの糸の機械、
大量ロット染色が得意な工場。
(6) リボン、レース、組紐といった繊維資材の染色に特殊なノウハウを持った工場。
(7) ミシン糸、刺繍糸に代表される縫糸の高堅牢染色に技術のある工場。
(8) 洋装織物やニットといった他産地の仕事に新しい分野を開いている工場。
このようにして我々の業界は、伝統と現代の染色技術がうまく融合して、117以上の工場が、それぞれに得意な分野の染色を手掛けているという、世界にも類をみない染色産地を形成しているのであります。
現在では、一部を除いて、ほとんど合成染料が使用されています。
下記の染料部属の中から素材、用途に応じて、各工場が上手く選択し使用しています。染色方法はもとより、そこに各工場の経験とノウハウがあります。
糸染は綛糸を染めるのが基本であり、当業界でも大半が綛状の糸類の染色がされている。一般には綛糸浸染(カセイトシンゼン)といわれている。
業界では、手染といわれており、綛糸を染棒にぶら下げ、桶に浸し、手かぎでもって綛糸を上下に操り、あるいは返しながら染める染法である。
昔は釜(和釜という)は木製であったが、化学染料の使用は熱湯が必要で、銅製の釜が使用されるようになった。しかし現在では和釜は、汚れ、耐薬品性という意味で、ほとんどステンレス製に置き換わっている。
熱源は、昔は割木、石炭が使用されていたが、今はほとんどボイラーからの蒸気が使われている。
帯に代表される西陣織物の小ロット染色は、大半はこの手染めでおこなわれている。何千色とある色に、見事な手捌きと、染料使いですばやく勘染する術は、かなりの経験を必要とし、腕の立つ職人さんからは、数多くの「伝統工芸士」や「現代の名工」が排出されている。
西陣産地の糸染を手染作業から、大量染色へと大きく変えたのが、噴射式染色機の出現である。昭和20年代後半から国内でも開発され、昭和33年には京都市は近代化資金にこの機械を対象とし、相当量の申請がなされ、爆発的に導入された。
染液はスピンドルから噴出し、綛にそって落下する。これを一定時間継続した後、自動的にシフターが回り綛の位置が変わるようになっている。
絹糸、レーヨン等の長繊維はじめ、あらゆる繊維の綛状繊維に適応できる汎用性のある機械であり、ほとんどの工場に導入されている。
ポリエステル長繊維やアクリル長繊維の綛糸染色には高温高圧噴射式染色機が使用されている。
棒にかけた綛糸を染色槽の染液中に浸し、染液を循環させながら染色する機械である。
古くは綿糸、羊毛糸の綛染に多く用いられてきたが、最近では、特に風合いを重視するアクリルバルキー糸とか、羊毛糸の染色に用いられている。西陣では、ウール着尺の最盛期には多く設置せれていたが、今はあまり見られない。
詰込み式染色機である。ばら毛や羊毛糸、ウーリーナイロンのような合成繊維の加工糸にむいている。当業界ではナイロンが市場にでた昭和30年代に設置する工場があったが、現在ではその台数は少ない。
一般に、糸染といえば綛糸の染色のことであったが、現在では、生産性が高いチーズ染色がおこなわれている。
種々の形の穴あきボビンに糸を巻き、スピンドルの立ったキャリヤーに充填し、染色する方法である。
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